熊野、房総、出羽三山!

以前の記事で、千葉県の養老渓谷に行ったところ房総丘陵が奈良の吉野に見えたと書きました。山好きの旦那さんはその情景が頭から離れず、家に帰って房総半島の山岳信仰について調べました。するとこの地には役小角(えんのおづぬ)の伝承があり、さらに出羽三山信仰がさかんだったことを知りました。なぜ千葉県なのに山形県にある山、出羽三山(羽黒山・月山・湯殿山)の信仰なのか。どんどん興味は湧いてきました。どこで楽しみの種を拾うかはわかりませんね。だから日常は面白い。この記事は房総半島の出羽三山信仰についてまとめたものです。

以下はLOVELOG版Messier Catalogue 27の2011年9月4日の記事の再投稿です。


熊野、房総、出羽三山!


7月に戸隠に行ってからというもの「山に登りたい…」と言い続けている旦那さん。いや、その前から奈良旅行で室生寺あたりに言ってから、信仰の山で心がリセットされる快感を求めているようです(*1)。そしてつい先日、いきなり何を言い出すかと思えばこれですからね。

「ドミノさん、出羽三山に行くよ。生まれ変わってくるよ!(*2)」

はいはい、いつもの病気ですかね。すぐスイッチ入る病。お江戸でしたらすぐに手配しますけどね。出羽三山って羽黒山・月山・湯殿山のことですよね。それぞれ現在、過去、未来を表し、その順に回って生まれ変わりの体験をするという修験道の山。確か山形県にあるんですよね。7月に長野旅行に行ったばかりでしょうに。お金は大丈夫なんですか? 仕事のお休みは取れるんですか?

「今年は卯年、月山卯歳ご縁年で、なんでも1回お参りをすると
 12回お参りしたのと同じになるんだって。行くしかないよ!!!
 土日を使った1泊2日の鶴岡発の登山ツアーも見つけたんだよ。(*3)」
「ご予算は?」
「35000円くらいまでなら。秋の装いショッピングを我慢すれば大丈夫。」
「山形県鶴岡市までどうやって行くつもりです?」
「山形新幹線でバビューンと!」
「ブッブー! 鶴岡は日本海側ですので上越新幹線で新潟に出て、そこから特急です。
 ジョルダン検索によりますと片道13360円です。
 ちなみにバスは7540円です。(*4)」
「(゚□゚)(絶句)」
「あ、いい機会です。路線図、復習しておいてくださいね。(*5)」

旦那さん撃沈。もっと安いツアーも探したのですが、これらは月山山頂には登らず、月山八合目の弥陀ヶ原湿原散策、行っても月山中の宮(中腹のお社)なのです。旦那さんはどうしても月山山頂(月山神社本宮)に登りたい! すると旦那さんが最初に選んだツアーに加えて、JR料金だと5万円を越えてしまいます。バスにしても4万円越え、完全に予算オーバーです。旦那さんはすっかり行く気がしぼんでしまいまいした。

仕方ないので、主人想いのよくできた私(えへん!)が旦那さんを千葉県立中央博物館の「出羽三山と山伏展」に連れていってあげました(*6)。

旦那さんが出羽三山と言い始めてからタイミングよく、私はこの企画展があるのを知ったのですが、なぜ千葉県の総合博物館で山形県の出羽三山の特集をやっているのか、旦那さんが不思議がります。普通、県の総合博物館ではその県にゆかりのある特集を組むことが多いと言うのですが、千葉県と出羽三山信仰は関係があるのか? それが大有りときたもんだ!


■修験道とは

まず山の信仰とはなにかからお話ししましょう。日本には仏教が入ってくる前、神道という認識も生まれる前から、水、草木、動物、鉱物、温泉、火山など豊かな自然を生み出す「山岳」に対し畏怖・畏敬の念を抱いたことから始まる信仰がありました。その信仰は7世紀、吉野や熊野といった紀伊半島の大自然の中で修行した役行者(えんのぎょうじゃ)という人物(*7)によって、仏教的行法を取り入れた山修行=修験道として確立されました。そして時同じ頃にスタートした律令制度(中央集権)をきっかけに、この修験道は日本各地の山々にネットワークができていったと考えられます。

このように山で修行する人を修験者、または山伏と言いますが、いつでも山に山伏がいるというのではありません。現在でも「山開き」というものがありますが、元々は山伏が行をするための期間を指す言葉で、修験行事に応じて山は登るものでした。どんな修行をしていたのかと言うと、それぞれの行事に意味があるのですが、強引にまとめてしまえば、生まれ変わりの儀式です。一度山という母に抱かれて死に、再び母の胎内に宿り、子宮で育まれ、産道を通り、この世に生を受ける。この生まれ変わりの追体験により、力を得ようとしているのです。

修験道の聖地が女人禁制なのもなんとなくわかる気がするんですよね。山の神様は女性だから嫉妬するからって? いいえ、偉大な自然の母はそんな稚拙な拒否はしません。きっと一つには山伏にとって女性がいては儀式に非日常という特別感を演出できないからだと思うのです。そしてもう一つは男性のプライドにかけて女性に絶ッ対につっこまれたくないのではないか。なぜなら女性は子宮という生命(神)と交信する装置を備えてますからね。生命の秘密を体感できる女性が儀式の意味を知ってしまうと「あんた、何やってんの…」と二の句が告げなくなることが目に見えている。女性という神秘がすぐ側にいるのになんてこと!(苦笑)

だから、女性の方々、お山の女人禁制を「男女差別だ!」とムキにならないでください。時代の流れで女性もお山に入れるようになったとしても、そこまでして世界の秘密を手に入れたがっている男性をそっとしておいてあげてください。その神と繋がろうとする努力が尊いのですから。


■出羽三山の開山と修験道ネットワーク

出羽三山の縁起を紐解いてみましょう。開山には諸説があるのですが、羽黒修験の開祖は崇峻天皇の第三皇子、蜂子皇子(能除太子)と言われています。聖徳太子の従兄弟にあたりるのですが「皇統譜」には出てこない、顔が醜くて捨てられたという可哀想な伝説上の人物です。推古天皇元年(593年)、皇子は海路で出羽国に着くと三本足の烏に導かれ、羽黒山で出現した羽黒大神に教えを受け、月山に登り月山大神を拝し、最後に湯殿山で湯殿山大神を拝し、両神を羽黒山に勧請したそうです。(古代は湯殿山ではなく、鳥海山だったとも言われます。)

既にお気づきの人もいるかと思いますが、三本足の烏といえば、ご存知サッカーワールドカップ日本代表のシンボルマーク八咫烏。これは熊野の神のお使いとして有名ですよね。この伝承は熊野修験の影響下でできたものだと考えることができます。実際に羽黒山に出羽神社という、羽黒山・月山・湯殿山の三つの山を祀ったお社があるのですが、社殿が3つかと言えば、どっこい奥が厨司になっていて4つに分かれて、一番右に熊野を祀っているんですって。

では全て熊野修験の影響で開山されたのかと言えばそうとも言い切れない。イタコで有名な恐山(青森)をイメージしていただければ一番分かりよいと思うのですが、古来、山は死者が集まるところとされていました。月山も古くから死者の魂が登り、浄化される場所と考えられていたそうで、山の機能を考えますと、役行者が修験道を確立する前より既にこれら山々が山の住民(樵や狩人たち)によって開かれ、死者の山、あの世と繋がる場所として、崇拝対象だったことは十分考えられます。

役行者(634-701)を始めとし、東大寺の大仏建立の立役者の行基(668-749)(*7)や真言宗の開祖の空海(774-835)(*7)も出羽三山を訪れた伝承がありますが、これらは伝承の域を出ないようです。例の熊野修験ネットワークが組織的に出羽三山に影響を与えるのはもう少し時代は下るのでしょうね。

例えば、保元元年(1156)高野山弘俊阿闍梨の入山。弘俊阿闍梨は聖之院の開祖(現在の荒澤寺)と言われています。聖とは火を管理する人で、修験の山には不滅の火を管理する常火堂が必ずあるとされます。その施設を作ったというのであれば、修験道としての山を開いたと言ってもよいのかもしれません。また彼は「三山執業」という羽黒山・月山・湯殿山の山伏の総代となり、教義は真言密教化し、修験も盛んになったといいます。

え、なんで修験道が高野山と関係するのかって? 役行者以降も修験は仏教、陰陽道、道教なども取り入れて進化していくのですが、修験の勢力が拡大していく中で、集団化・組織化をしてきますと、真言密教を拠り所とする修験を「当山派」、天台教義を拠り所にする修験を「本山派」と別れていく流れが中世以降に現れます。弘俊阿闍梨の入山は平安末期ですが、そのムーブメントの走りではないでしょうか。当然、真言密教と言えば高野山ですよね。

他にも修験道ネットワークの例を挙げますと、山形県にスキー場や温泉で有名な蔵王ってあるでしょう? あれは吉野大峯で発達した行法が全国の霊場に伝播して、蔵王権現が勧請されて広まった証拠なんですって。刈田岳に山頂に蔵王堂がありますヨ(*8)。


■ネットワーク遮断に立ち向かう

ところがこのネットワークが遮断される、山伏の移動が禁止される時がやってくるのです。それが幕藩体制の江戸時代。勧進帳でおなじみ、源義経や弁慶が山伏の格好をして鞍馬から奥州までの山伏街道を通って逃避行をした話からもわかるように、古来から山伏と言えば全国行脚しており、逃亡したり、スパイ活動をするのにもってこいの格好でした。ところが徳川家康はこの機動力を反幕府運動に使われてはたまらんと考え、山伏に定住を命じます(*9)。

出羽三山の山伏たちも例外ではありません。彼らは霊山の麓に定住し、宿坊を営み、お参りにきた人たちを山に案内することに活動の比重を置くことにしました(今までも参拝者の案内業務はやっていたと思う)。そして当山派(真言宗)だったのが、徳川家康のブレーン・天台宗の天海僧正の庇護に入るために本山派(天台宗)に鞍替えするという政治的判断をしました。

その時に強硬に反対したのが湯殿山の修験者です。出羽三山の修験とは、羽黒の修験と湯殿の修験と2つあり、それぞれが月山を管理している形だったそうです。湯殿山は弘法大師が開いたという伝承への誇りから真言宗のままでいたいと主張しました。しかし政治権力側のほうが分がいいのは当たり前で、湯殿山への参拝客が減ってしまいます。

そこでフューチャーされるのが、現在湯殿山の代名詞とも言える即身仏(ミイラ)(*10)です。修験道にも肉体がミイラ化する究極の修行・入定(*11)がありますが、それをわざわざ人に見せて拝ませようとしたのは、弘法大師が高野山で入定した伝承から、その正統なる後継であることを知らしめて、生き残りを図ったのではないかと考えられます。日本にある15体の即身仏のうち9体が湯殿山のものと言うのが、どれだけ湯殿山の修験にとって修行面でも財政面でも大切なことだったかを物語っているのではないでしょうか。

泥臭い話ですが、山伏と言えども修行だけでは衣食住は成り立ちません。山伏は過酷な山岳修行で悟りを開き超人的な力を身に付けたと考えられていて、里に降りて験競べ、相撲、神楽、加持祈祷などを行い、里の者からも尊敬され、それはそれは、おハナ(お金やお米)も弾んでもらったと思うのですよ。ところが定住をすることで「普通にご飯も食うんだな。里人と同じ普通の人間なんだな。」とその神秘性が失われてしまい、収入面で危うくなったのは想像に難くありません。

やむを得ず参拝客を増やすという里の行に比重を置かざるを得なくなったのが江戸時代の山伏の姿なのです。


■プロモーションする山伏たち

出羽三山の山伏たちが関東までやってきて参拝客を増やすための活動とは一体どんなことだったのでしょう。それについて千葉県立中央博物館の「出羽三山と山伏展」で知ることができました。

まず山伏は里に出てきて積極的に歩き回って参拝の勧誘をします。その際、お札や暦や薬(寒水石)(*12)などのお土産を配りました。「参拝するともっと霊験がありますよ。」と言われると行きたい気持ちになるでしょうね。また各地の里に農民に混じって生活をする出張所の役割を果たす里山伏もいました。加持祈祷を行ったり、三山参拝のツアコンをしたり、信者さん(行人)に修行法指導したりと、まるで生活アドバイザーやカウンセラーのように振舞いました。

幕末にはこんなプロモーションもありましたっけ。さるお屋敷で下女として働く於竹が生きながら大日如来になったという伝説が広まり、於竹大日如来像が羽黒山の黄金堂に収められ、何度も江戸に出開帳されたんですよ。これも羽黒山の山伏の布教活動の一つ。韓流アイドルのように来日しては話題をさらっていき、韓国にも日本のファンが押し寄せるような現象でしょうかね。

このような活動が功を奏し、出羽三山を巡ることは生まれ変わりを果たすこととされ、「西の伊勢参り」に対する「東の奥参り」(出羽三山詣)として、江戸時代を中心にして多くの旅人を集めました。旅の行程はざっと40日。途中日光にお参りに寄って、出羽三山滞在はほんの3日程度。太平洋側に出て、松島観光をして帰るというもの。巡礼というより立派な観光旅行ですね…。一般人はそんなもんか。

関東が出羽三山プロモーション(布教)強化地域になっていたのですが、関東は数あれど、千葉が圧倒的に信者が多いんだそうです。全国でもなんと信者数が山形、宮城、福島、千葉の順で第4位。実際に千葉には現在でも行人の信仰が残っており、梵天と呼ばれる大型の御幣をここぞと言うときに作成して神の依り代としているそうです。この度はなんと県内34地区の梵天が勢ぞろい。ここからも千葉と出羽三山の信仰の関係の強さが伺えたのでした。


■なぜ千葉に出羽三山信仰が多いのか

なぜ東京でも埼玉でも茨城でもなく千葉なのか。その答えは残念ですが博物館にはありませんでした。それを旦那さんがTwitterで呟いたところ、面白いヒントがもらえたんですよね。

「千葉は熊野神社の数が多いそうです。」(Twitter

熊野=修験道。調べましたよ、ありましたよ。熊野神社数。
1位:千葉 268
2位:福島 235
3位:愛知 209
4位:栃木 182
5位:岩手 158
6位:熊本 158
7位:新潟 148
8位:山形 142
9位:宮城 133
10位:埼玉 111
(「熊野 神と仏」より)

千葉、すごい…。

熊野神社はどうやって増えていったか。一つは熊野修験ネットワークによって日本各地に広まった「熊野立願」と「熊野詣」ではないでしょうか。病気が重くなると最終手段として「熊野へ三度参るからこの病気を直してください!」と願を立て、実際に熊野まで巡礼をしました(室町時代には山伏による熊野詣代行業あり)。また地方の有力者から熊野へ荘園の寄進が行われたことで、そこに熊野関係者が派遣されました。こういった信仰の広まりにより各地に熊野神社が勧請されたと思われます(*13)。

ではなぜ熊野神社が千葉に多いのか。これもまたTwitterでヒントをいただきました。

「熊野水軍もあるくらいですから。」(Twitter

熊野水軍について、よい記事がありましたので少し長いですが抜粋します。

学会の主流は内陸横断説のようですが、私は房総外廻り説をとりたいと思っています。房総外廻り説への反論は、要するに「江戸時代になっても房総沖の航路はなお難所であった。だから中世の船ではここを渡り切れたはずはない」というものですが、それは船と航海技術の発展がそのまま航路の拡大をもたらすという理解に基づいています。ところで中世から近世への商船への発展は、櫓走・帆走共用から帆走専用への移行であったことはすでに知られています。つまり中世の船は、帆走と櫓走を共用しており、たとえば房総沖も沿岸沿いに小刻みに航行することによって乗り切ることができる可能性がありました。ところが帆走専用とすることで乗組員を大幅に削減し経済性を大きく高めることに成功した近世の商船・千石船にとっては、この海域はむしろ航海困難な場所になってしまったといいます。
 ところで熊野の海上勢力が奥州に到達していたことを窺わせる根拠のひとつとして、現在の宮城、福島の沿岸一帯に、熊野神社が多数分布し熊野信仰が盛んなことがあげられます。仙台のやや南の名取地域は、奥州有数の熊野信仰の拠点であったといわれます。 
海からたどる「商い」の時代史
~現代地域経済圏の礎をつくった近世海運起業家~
斎藤 善之 (さいとう よしゆき) 東北学院大学経済学部助教授(*14)

この論文によりますと熊野水軍というのは、水軍であり商人であり宗教勢力でもあったということです。そうそう、水軍の総元締めは熊野別当、修験道と同じですからね。彼らは潮の流れの難しい房総に立ち寄る小回りの利く船と操船技術を持っていたのでしょうかね。

例えば熊野信仰と関係の深い鈴木姓(*15)が関東以北、特に千葉、茨城、福島、宮城ラインに多いのは、鈴木氏率いる熊野水軍の影響を考えてもよいのではないでしょうか。鈴木って、山伏の衣装の鈴懸(*16)と関係しているのかななんて考えるとちょっとドキドキしていたのですが…。鈴木姓のルーツは紀伊では、刈り取ったあとの稲束を干したものを「すずき」といったことだとか。また「鈴懸」の鈴は五鈷鈴を、懸は金胎の曼荼羅をかけて修行することを表すそうです。うーん残念。(*17)

また勝浦、鴨川、白浜など房総半島は紀伊半島の地名と同じものが多いのはよく知られたところですよね(*18)。黒潮に乗って古代の人々が紀伊半島から房総半島にやってきたのならば、紀伊半島と房総半島の人たちは同じ一族にたどり着くかもしれないのです。熊野と房総と出羽三山。ロマンがありますよね~。

ゴールデンウィークに私たちは房総半島の山深い場所に行って山岳修行をすぐに連想したのですが(*19)、こうやって調べてみますと、まだまだ調査の精度は粗いですが、千葉には修験道を受け入れる下地があったんだなあと感じることができました。これで、私たち、本当に出羽三山に登る時がきたら、もう盛り上がり間違いなし(><)!


<参考>
山の宗教 修験道案内(Amazon)
熊野 神と仏(Amazon)


*1:室生寺行った、筑波山行った、三輪山行った、戸隠行った(当Blog)
*2:出羽三山(公式HP)
*3:見つけたツアー(山形県鶴岡市羽黒町観光協会)
*4:ジョルダン検索(ジョルダン)
*5:JR東日本の新幹線路線図(新幹線/Shinkansen HP)
  個人HPです。なんてステキなHP!
*6:千葉中央博物館「出羽三山と山伏展」(公式Blog)
*7:役行者行基空海(Wiki)
*8:刈田嶺神社(Wiki)
*9:謎を解く 二人の権兵衛 第三章 熊野三山と龍爪山
  1.熊野権現と山伏(龍爪山の歴史HP)
*10:ミイラ(即身仏)(Wiki)
*11:入場(Wiki)
*12:寒水石(「出羽三山と山伏展」公式Blog)
*13:熊野神社(Wiki)
  全国熊野神社参詣記(みくまのねっとHP)
*14:海からたどる「商い」の時代史(ミツカン水の文化センター HP)
*15:鈴木氏(Wiki)
  鈴木氏(日本の苗字7000傑)
*16:山伏の衣装の鈴懸(「出羽三山と山伏展」公式Blog)
*17:鈴木の由来(日本の苗字)
  鈴懸の名前の由来(山伏の装束 駒場瀧不動尊 HP)
*18:千葉県の房総半島には、紀伊半島にある地名が多数存在(Yahoo 知恵袋)
*19:千葉で山岳修行を思い出す(当Blog)


<紹介>

今度はこの本のまとめをブログに書きたいなあ。

コメント

  1. はじめまして&こんばんは

    こちらの記事…
    大変参考になりました

    最近、千葉のダム湖(おもに市原市)
    に写真を撮りにいったのですが…

    出羽三山信仰の供養塚?
    を多く見かけまして…

    千葉なのに、何故出羽三山??
    と疑問を抱いておりまして…

    この記事のおかげで
    スッキリしました(o^∇^o)

    わかりやすく、面白い記事
    ありがとうございましたm(_ _)m

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    1. こんにちは。お役に立ててよかったです(^^)

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