科学の価値とは何か-原爆の日に想う

2012年夏はオリンピックで盛り上がっていますが、この記事を書いた2008年もオリンピックの年でした。広島にほど近いところが故郷の旦那さんにとって、広島原爆の日はひとごとではありません。旦那さんの故郷も8月6日の8時15分になるとサイレンが鳴り、犠牲者に黙祷を捧げます。小学生の頃からの習慣となっています。

以下はLOVELOG版Messier Catalogue 27の2008年08月10日の記事の再投稿です。

科学の価値とは何か-原爆の日に想う


ずいぶん昔ですが、私が旦那さんの読書につきあって大変気に入ったのが「ご冗談でしょう、ファインマンさん」という1965年に「くりこみ理論」で朝永振一郎と共にノーベル物理賞受賞者を取ったR・ファインマンのエピソート集です。1918年生まれのファインマンは、まだプリンストンの大学院院生だった時代に同僚だったR・ウィルソンに誘われて、原爆を生み出すことになるマンハッタン計画に1942年に参加し、ロスアラモスの地で原爆の内部爆発にあたり実際はどんなことが起こっているか、そのエネルギーの放出はどれくらいか等を明らかにする計算で活躍をしました。

その本の中で「下から見たロスアラモス」という章があります。文字通りプロジェクト下っ端院生(後に学位はとる)の所感が書かれたもので、その計算がいかに困難で自分の工夫でどのように成し遂げたかとか、計画参加者で大数学者だったノイマンに「我々が今生きている世の中に責任は持つ必要がない。」と教えてもらって気が楽になったとか、1945年7月19日のトリニティ実験で、原爆が成功したことに「僕をはじめみんなの心は、自分たちが良い目的をもってこの仕事を始め、力を合わせて無我夢中で働いてきた、そしてそれがついに完成したのだ、という喜びでいっぱいだった。」という想いで思考停止させたことを、実にペーペーだった立場から無邪気に語っています(*1)。ファインマンの科学への情熱と素晴らしい発想、尽きることのない好奇心は全エピソードを通して大いに共感できることなのですが、このロスアラモスのくだりだけは、シコリが残りました。

別の本「困ります、ファインマンさん」で1955年に科学アカデミーでの一般向け公演の原稿「科学の価値とは何か」の中で、原爆を契機に考えるようになった科学のあるべき姿を語っています。要約としては「科学は善と悪を教えてくれるものではない」「無知な私たちは重大な過ちを犯すが、偉大な進歩は『無知の自覚』と『思索の自由』があってこそ」「できるだけ努力をし、できるだけのことを学び、答えをできるだけ改善して、未来の人に『思索の自由』を渡していく」というものでした。その無知が犯したことへの私たちが真に向かい合うべき深い思索(反省)のあり方がファインマンの残したものからは読み取れないのは残念です。原稿の序文にあった「科学が人を死に追いやる」という彼の自覚からは、きっと彼なりに犯したことへの思索があったのでしょうが、個人体験にとどめたまま、マンハッタン計画に携わった人に多いという腎臓組織周辺のガンで1988年に亡くなりました。

そんなことを8月6日のヒロシマ原爆の日に思い出して、ふと「ボスは何を思ったんだろう。」と思いまして…。


■原爆投下前のオッペンハイマー

ボスというのは「原爆の父」と呼ばれるロスアラモス研究所所長として技術面で指揮をとった科学者オッペンハイマーです。マッカーシズムの吹き荒れる1950年代、対ソ連の軍拡競争で盛り上がる水爆開発の反対をしたことから疎ましがられて、ソ連のスパイだと濡れ衣を着せられて公職を追放されたということは知っています。ここから、水爆に反対したということが罪滅ぼしのつもりだったのか?と今まで単純に考えていましたが、原爆が投下された1945年から名誉を回復されて亡くなる1967年にまで実に22年もあるわけで、そんな簡単な話ではないなと思うに至り、調べて見ることにしました。

オッペンハイマーの専門は理論物理学。実験は学生時代にハンダ付けが出来なくて大声上げてしまうほど不器用だったということで得意ではないようです。学位論文は量子力学の分野を仕上げますが、23歳でヨーロッパ留学からアメリカに戻ってからは初期の理論的研究から量子電磁力学の領域にいたるまで基礎的研究が多く、アメリカの理論物理学界の指導的役割を果たしました。彼の論文が中性子星やブラックホールの存在を預言していたことは有名です。授業では最初こそ従来の繊細で内気な性格からボソボソと話す下手な講義だったものの、やがて知的興奮と物理への情熱が溢れる指導者として学生たちに大人気となったそうです。オッペンハイマーの元からは多くの優秀な物理学者が育ちました。

こんな具合ですから、物理学界など狭い世界、原爆開発に声がかかるのは無理がないのですが、オッペンハイマーは不本意ながら巻き込まれていったわけではなさそうです。なぜなら当時、同僚や知人がすでにレーダーやロケットの研究に参加していて、取り残されたような感じを味わっていたのではないか。自分の所属するものに対して役に立ちたいと願う、並の「愛国心」を持って参加をしたのではないかと思うのです。「ナチス・ドイツに先に原子爆弾を持たれてはならない。」という多くのユダヤ人亡命科学者たちの怯えの混じった願いに押されるように、アメリカでの原爆開発は1941年10月に大統領に正式承認されて具体的に進み始めます。

1942年12月、彼が新研究所(ロスアラモス)の所長に抜擢されたのは大きな理由があります。それは原爆将軍グローブスに対し「現在、何がわかっていて、何がわからないのか。」という現状を正確に把握し、明確に説明ができたことです。それはやがて一癖も二癖もある科学者たちをマネージメントする力、現場の細かい問題点まで理解して研究所の目標へ結びつける力を発揮するようになります。

ちょっとロスアラモスのスタッフの声を聞いてみましょう。研究所員のJ・L・タック「他の研究所ではわずかの内輪の人間だけが仕事の内容を知っていて、他の者はすべて、わけがわからなくても従うべきだという考えが専らだったのが、オッペンハイマーははじめからその馬鹿げた考えを抹殺した。」、先述のファインマン「オッペンハイマーは実に忍耐強い人で、僕たち一人一人の個人的問題にも深い思いやりを示してくれた。」、研究所員以外の建設工事の労働者「オッピーのためなら危ないこと、無理なことも喜んでする気になっていたと思います。」とあります。


■科学者の良心とは

私が問題にしたいのは、軍の管理下にあるこのプロジェクトでオッペンハイマーが原爆が投下されないように努力できた場面はあったのではないかということです。「ヒトラーより先に原子爆弾を持つ」というのが研究者たちの内なる至上命令だったのであれば、ドイツは持たないとわかった1944年11月時点で研究所員たちで共同声明を出すこともできました。実際、あのファインマンを誘ったウィルソンは原爆の意義を考える集会を開きますが、オッペンハイマーはその討議を抑えました。

極めつけがこちら。原爆使用に関する決定を行う暫定委員会が1945年5月9日から始まるのですが、5月31日の第4回目の委員会に初めて彼を含む科学者4人が招かれます。昼食という非公式な場で「実際に人命に対して原爆を使用せずに戦争を終わらせ得ると想われるデモンストレーションを工夫することはできるか否か」という議題があがり、オッペンハイマーがまとめ役で答申を作りました。そこで示したのが「我々(科学者)は、原子力の出現がもたらした、政治的、社会的、軍事的問題を解決する上で特別の能力を持つと主張するものではない。」という見解です。

オッペンハイマーが軍と政治家に魂を売り渡した証拠として上記はよく取り上げられます。結果、動機が何であれ彼は軍と政治家に媚びへつらったことになるのですが、藤永茂さんは伝記の中で「父親的存在に対する容易な信頼はオッペンハイマーが一生振り切れなかった一種の精神的未熟であったかもしれぬ。」と分析しています。

しかし彼は決して軍寄りというわけではありません。例の第4回目の委員会での議事録に載る彼の主張をまとめてみます。
・この分野の多数の部門の研究を進めるために、現在の研究員を解放して、諸大学、諸研究所に帰すべき。
・すべての努力の基本的な目標は人類の福祉の拡大にあり、情報開示をすることで成し遂げられる。
・ソ連といえども研究では協調すべき。
・原爆、凄まじい発光体と飛び散る中性子で直径1kmの範囲で生命の危険があると予測

核技術の囲い込みに走る軍部に警鐘を鳴らすべく、自分の仲間の科学者たち、自分の所属する物理学界の自由と進歩を説いていますが、全て自分の目の届く範囲です。自分のコミュニティ以外の人は人類という大雑把な言葉でまとめられている。自分の目の届かない原爆の犠牲者になるであろう人たちへの想いや対策は一切出てこない。「政治的、社会的、軍事的問題は関係ない」は結構だとして、「道徳的」に考える必要はないと思ったのか? 実際彼は原爆を「落とせ。」とも「落とすな。」とも言わなかった。

前出のウィルソン自身はドイツが無条件降伏をした1945年5月、ここにきても科学者の間で誰も道徳的なことは一切問題にしなかったこと、自ら研究所を去る人は一人もいなかったこと、そしてウィルソン自身がそれができなかったのは、事態が急展開したことに加えて、「原爆がはたしてうまくいくのか見届けたいという、これぞファウスト的な焦がれる想いがあった。」と回想しています。しかしオッペンハイマーはファウストだったのではなくて、原発投下にノータッチの立場をとった1番の理由は権威に対する任務遂行の責任感と想像力欠如による無関心からなのではないかと思うのです。原爆の生まれた支持基盤があってなんら科学者の責任が追えないものだとしても、原爆投下の最終決定になんら影響力を持たなかったとしても、原爆に携わる科学者の代表がこの立場を取ったことが残念でなりません。科学者の良心として「落とすな。」ただこう主張して欲しかった。


■原爆投下後のオッペンハイマー

さて、オッペンハイマーは原爆投下後にどういった対応をとったのか。二度と一般非戦闘員の頭上で炸裂することのないようにと願って、原子力の国際管理と水爆反対の主張を行いました。いずれも政治に翻弄され100%の成功は収められませんでしたが、これが多くの命を犠牲にして彼の中に芽吹いた献身であることは間違いありません。

また科学に寄せる想いはファインマンと大差ありません。ですが無邪気なファインマンと違ったのは人との結びつきを主張したことです。1945年11月講演「原子力時代と科学者」から抜粋します。「科学の価値は人間の世界にこそ存在すべきであり、私たちはすべてこの世界に根ざすのです。この根は世界における最も強靭な絆であり、私たちを互いに結びつけているものと比べてさえ、一段と強いのです、これは最も深い絆―私たちを同胞である人間に結びつけるものであります。」 いかに自分が見ず知らずの多くの人たちと人間の世界という絆で結ばれているのか、そのことを思えば科学が人間に牙をむいたとき、科学者の自分は「関係ない」は決め込めない。思索から出た自分の言葉だと思いました。

「原爆の父」の刻印を背負って彼は1967年に喉頭ガンで亡くなりました。


<参考> *:参考文献   
R・P・ファインマン「ご冗談でしょう、ファインマンさん〈上〉」   
R・P・ファインマン「困ります、ファインマンさん 」   
藤永茂「ロバート・オッペンハイマー―愚者としての科学者
     ステレオタイプ像を取り払って実像に肉薄している良書。
     資料の読み込み量がものすごい。最初に原爆進言し、
     途中反対を唱えたシラードの虚像を暴き出しているのが痛快。
R・オッペンハイマー「原子力は誰のものか
那須正幹=文 西村繁男=絵「絵で読む 広島の原爆
     この本、とても素晴らしい絵本です。
     原爆の悲惨さを街の俯瞰図で伝えることもさることながら、
     原爆開発の経緯、原爆の構造、第二次世界大戦後の扱いなど
     多方面から原爆を考えさせる資料となっています。
     大人の方はもちろんお子さんと一緒にぜひ。
     英語版があるので、ぜひ外国の人に読んで欲しいです。
米沢富美子「真理への旅人たち―物理学の20世紀 (NHK人間講座)」   (2003年4~5月期)

 *1:「ご冗談でしょう、ファインマンさん」
   「ファインマン物理学」のまとめ役となったロバート・レイトン教授の息子、
   ラルフ・レイトンが、ドラムの趣味仲間として
   ファインマンから聞かされたエピソードを書き起こしたもの。
  親子ほど年の違う友人に語る話なので、無邪気さは従来の性格に加えて、
   この辺りに起因するのかもしれません。


<紹介>

コメント

  1. 原爆の開発について、オッペンハイマーやファインマンの言葉、著作がなければ当時の科学者(科学者の道を選んだ人間)の心を知ることが難しかったでしょう。過去、いつの時代でも「大量破壊兵器の開発」はありました。将来は、「生物科学兵器」でしょうか。原爆を使用した政治家や軍人の心の中と著作は、ほとんど知られていません。一体、原爆を使用した彼ら(「我々の代表者や知人」かな)の心は、何が大事なことかの判断の基準をどこに置いていたのでしょう。いまも、世界のどこかに、第二・第三の愚かな科学者に加え、政治家、軍人そして無関心な市民がいるようです。そうした人たちにオッペンハイマーやファインマンの反省を届けたく思います。

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