原子爆弾開発の経緯

この記事は2008年08月12日のものとセットです。原子爆弾ってどうやって生まれたんだろうという純粋な疑問から調べてまとめてみました。科学の進歩だけでは語れない、人の根源的な不安がこのような化け物を生み出してしまったというほかありません。生き延びるためのセンサーでもある不安が逆に自分たちの寿命を縮めてしまうという皮肉は原子爆弾に限ったことではありません。どうやったら不安から開放されるのか。私はただそこにいることを世界からの祝福と感じることができる感性なのかなと思います。はい。

以下はLOVELOG版Messier Catalogue 27の2008年08月12日の記事の再投稿です。

原子爆弾開発の経緯

先日の日記「科学の価値とは何か-原爆の日に想う」を書くにあたっていろいろ調べたのですが、本日は本論からはみ出た部分、オッペンハイマーが原爆計画に携わるようになった具体的な経緯についてを取り上げたいと思います。イラストを描く代わり年表を作ってみましたので興味のある方は併せてご覧ください。

原爆開発年表(Googleドキュメント)(*1)


■科学上の発見

原爆をつくるのに、実は量子力学も相対性理論もあまり必要ではありませんでした。原爆のパワーを生み出す核分裂の発見は実に机の上でつつましやかに行われたそうです。

もともと核兵器がうまれるきっかけとなった科学上の発見は1932年の中性子の発見にさかのぼります。中学校の時習いませんでしたか? 元素は原子核とその周りを回るマイナスの電子から成り立っており、原子核は陽子と中性子からできていると。この中性子を原子核に照射することで人工的に放射性同位体ができるのがわかったのが1934年。同じ元素なのに中性子の数が違うというやつですね。これらの成果でノーベル物理学賞を受賞するのがフェルミなのですが、この時彼の実験ではウランも含まれていました。(*2)

1938年にはハーン&シュトラスマンが中性子をウランに照射することでバリウムができることを化学的に確認、翌年1939年にはマイトナー&フリッシュが物理的に証明します。ここで初めて核分裂とそれに伴って巨大なエネルギーをもって飛び出す二次中性子の存在をつきとめます。時を同じくしてシラード&フェルミ組と I. キュリー&ジョリオ組がこの二次中性子が更に別のウラン元素に当たって新たな核分裂を起こす核分裂連鎖反応を証明します。(*3)

そして原子爆弾開発への重要な理論根拠にされたといわれるのが、1939月2月に提出されたボーア&ホイーラーの核分裂の機構についての論文です。1942年12月にはフェルミがシカゴ大で世界最初の原子炉を作成し、核連鎖反応を現実で成功させます。いよいよ軍事利用化計画が本格始動し始めます。

■ナチス・ドイツを恐れたユダヤ人科学者のロビー活動

さてこの核分裂連鎖反応、ゆっくりと進行させ、持続的にエネルギーを取り出すことに成功したのが原子炉で、一方、高速で進行させ、膨大なエネルギーを一瞬のうちに取り出すのが原子爆弾です。核分裂連鎖反応を軍事転用できると強く意識したのは誰でしょう。

それはハンガリーから亡命してきたユダヤ人科学者のシラードです。彼はすでに1933年辺りから中性子連鎖反応のアイデアは持っていて、爆弾に利用できるのではないかと目をつけていました。そんな彼をはじめ、亡命してきたユダヤ人科学者たちはナチス・ドイツに原爆で先を越されるを非常に恐れます。彼は1939年3月に「フィジカルレビュー」に送った核分裂連鎖反応の論文について、ドイツに漏洩するのを恐れて出版をストップさせるくらいの用心深さでしたし(結局は出版したが)、同じ月に既にノーベル賞受賞者のフェルミに依頼して海軍への接触を図り、軍事的利用の可能性を説いてもらいます。この時は具体的な成果が得られず終わってしまいますが、1939年3月が初めて科学者が軍に接触した時となります。

1939年9月にナチスの会議でボーア&ホイーラーの論文が取り上げられ、原爆の軍事利用が検討されます。そしてここからがあの有名な、アメリカ原爆開発の発端といわれる「アインシュタインの手紙」が登場します。ハンガリーからアメリカへ亡命してきたユダヤ人科学者三人衆、シラード&ウィグナー&テラーは、高名なアインシュタインを説得、1939年10月、署名入りの手紙がローズヴェルト大統領に届けられます。ただしこの当時はまだ原爆はそれほど現実的なものではありませんでした。よってシラードらの目論見どおりの成果は挙げられませんでしたが、フェルミらを中心とするウラン諮問委員会が発足しました。

■国際情勢と政治判断

一方、海の向こうのイギリスでは、ドイツからイギリスに亡命したユダヤ人科学者のフリッシュ&パイエルスの1940年4月に行った原子爆弾の威力の計算の結果を、イギリス政府は諸大学の有力物理学者からなるモード委員会より受けて1941年に原爆開発スタートさせます。ところがドイツ空軍の英国本土爆撃が激しくなり、国内での単独の原爆開発が難しくなったため、アメリカとカナダとの共同開発をもちかけます。1941年10月、正式にアメリカで原爆開発計画がスタートします。

そしてようやくオッペンハイマーの名前が挙がってきます。1941年10月、最初はウラン委員会(国防研究委員会に吸収されたウラン諮問委員会)委員長ブリッグスから科学者同士のつながりで委員会参加の声がかかったにすぎません。やがて爆弾設計の責任者のコンプトンが1942年に設立した冶金研究所の所長にオッペンハイマーが招かれます。1942年の6月には国防研究委員会の委員長のブッシュがローズヴェルト大統領に具体化した原爆計画が告げると、陸軍には「マンハッタン管区」という原爆開発計画を専門に行う事務所が設立され、軍人グローヴスが「マンハッタン管区」の最高責任者になります。その彼が開発現場査察で出会って一発で見込んだのがオッペンハイマーなのです。すぐに冶金研究所を中心とした爆弾設計部隊は新研究所として独立させ、ここの所長にオッペンハイマーを任命します。1943年4月、ロスアラモス研究所の開所です。ここで「マンハッタン計画」が遂行されていくことになります。


■歴史から学ぶ

今回年表を作りながらこれらを知って思ったのは、原爆を作り出した科学者は悪である、原爆に連なる科学の発見そのものが悪であるとは言い切れないことです。これらの発見は全て連鎖しています。前の研究者の成果を受けて、次の研究者は更に発展させてみた。科学の発見はこの繰り返しなのです。私は中性子の発見から歴史を切り取っていますが、X線を発見したキュリー夫妻だってこの流れに連なる人たちです。更に20世紀はボーアの目指した「世界に開かれた研究所」の理念で、物理学者たちは国境を越えるだけでなく、分野の壁も越えて隔たりのない環境で自由に真理を追究していく大いなる発展の時代だったのです。この大きな流れの中で、一部分の発見を切り取って悪だと断定することはできないのではないでしょうか。

更に忘れてはならないのは、同じ人間が生み出した同じ時代の申し子「戦争」という恐怖の兄弟です。これに脅かされながら「物理学」は発見で得た力を使う道を誤りました。ロスアラモスの研究員のウィルソンは、ドイツの敗北を知って研究者にとって原爆を作る必要性がなくなったにもかかわらず、自ら研究所を去る人は一人もいなかったと言いましたが、1944年のクリスマスイヴにアメリカを去った1人のポーランド人(イギリスチーム)がいました。J・ロートブラッドです。彼はパグウォッシュ会議の書記長を17年も務めあげ、1995年にノーベル平和賞を受賞しました。その彼の1980年の発言より。

「40年たった今も一つの疑問が私の心につきまとう。あの時犯した過ちを繰り返さないように私たちは充分学んだであろうか。私自身についてさえ確信はない。絶対的平和主義者ではない私は、前と同じような状況になった時、前と同じように振舞うことはない、とは保証しかねる。私たちの道徳観念は、一度軍事行動が始まれば、ポイと投げ捨てられるように思われる。だから、最も重要なことは、そうした状況になることを許さないようにすることである。」

歴史から学ぶのは予防のためである。


<参考>
参考文献
   藤永茂「ロバート・オッペンハイマー―愚者としての科学者
   那須正幹=文 西村繁男=絵「絵で読む 広島の原爆

参考サイト
*1:5章:戦争への道 ~量子力学から原子核物理へ   (量子力学の歴史 HP)
  原爆の歴史   資料室 原子爆弾の歴史1~3   (小嵐大悟郎さん 個人HP)
   双方、とてもよくまとまっています!
*2:安定同位体の歴史   (株式会社 タツオカHP)
  中性子の発見   ミクロの世界 その3 原子核の世界 中性子の発見
   (九州大学名誉教授 高田健次郎さんHP)
  放射性同位体の特徴である放射能の研究について
  放射線にはどんな歴史があるの?
   (アイソ博士とトープ君 放射線・アイソトープのお話HP)
*3:核分裂(Wiki)
   ウラン235がクリプトン92とバリウム141に分裂
  中性子の数(92+141)+ 飛び出せ!中性子2~3コ
   この「飛び出せ!中性子」が、他のウラン235に当たって、
   ウラン235がなくなるまで繰り返す。
  ある歴史のすれ違い 原子爆弾の開発
  古屋信明さん防衛大の授業のサマリーだそうです。
    (県立千葉高昭和43年卒業生同期会 HP)

<紹介>

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