イメージを超えていくこと

旦那さんがピアノ演奏でラヴェルの「クープランの墓」の「メヌエット」に取り組んで早数ヶ月。途中3ヶ月は妊娠によるつわりで全く練習がはかどらなかったものの、11月のピアノ発表会になんとか仕上げが間に合わせることができました。

ラヴェルと言うと「ボレロ」がで有名でしょうか。ピアノ弾きであれば「亡き王女のためのパヴァーヌ」を弾いてみたいと思われるでしょうか。旦那さんはピアノの先生から「ラヴェルはまだ早い。」と言われ続けていたのですが、「激しくなく、甘くもなく、なんだか懐かしいほっこりした曲が弾いてみたいです。」とリクエストをすると、「これだったらいいでしょう。」とご紹介していただきました。

こんな曲(YouTubeより)。気品溢れる演奏。零れ落ちる宝物のような音がいいですね。

Ravel (1971) - Le tombeau de Couperin - 05 - Menue
ジャック・フェヴリエ









■完璧さが旦那さんを拒む

ラヴェルの楽曲は一分の隙もなく完璧と言われ、ロシアの作曲家のストラヴィンスキーからも「スイスの時計職人」と呼ばれていたそうです。私はこの完璧と表現されるものが、とにかく美しいメロディに対し音の組み合わせが完璧でこれ以上のつっこみようがない、途中ダれたりする詰めの甘さも一切ないという作曲技術のことであり、実際に楽譜を見ても、強弱を初め、細かいニュアンスなど指示が多く、ある意味、楽譜に忠実に弾けば仕上がりが付いてくるのではないかと思ったのです。まあそれを実現するための技術は必要なんですけどね。

楽譜に忠実とは申せ、ラヴェルの大変さはまずは譜読みです。旦那さんに聞いたところによると、バッハやベートーベン、ショパンなど古典からロマン派に馴染みがある人にとっては、ある程度こういう響きという「読み」(現代で言うところのお決まりのコード進行)を持って譜読みを行うという慣れがあるのですが、フランスものの不思議な響きは指が自然とシフトしない辛さがあったそうです。そしてラヴェルの曲の特徴として、ぱっと聞いたところださりげないのに、実は音が多く複雑な響きで構成されているのですから、読むのは思った以上に一苦労です。

そんなこんなで旦那さんは譜読みに時間がかかったものの、仕上げは楽譜に忠実にをモットーに11月の発表会に照準を合わせて練習を続けました。ところが! 彼女が仕上げでこれほど苦しんだ作曲家はいたかというくらい手ごたえのなさに苦しんだのです。

あくまでも旦那さんの場合ですが、曲の仕上げは、こういう音で弾きたい、こういう状況を想像したい、こういう気持ちを沿わせたいなど、自分のイメージが曲と馴染んでいき、最終的には曲と渾然一体となれたときにクライマックスが訪れます。それを発表会など照準を合わせピークに持っていきます。ところが旦那さんは、ラヴェルの曲に最後の最後までそれを拒まれ続けました。

ラヴェルの曲は完璧で余計な解釈が必要ないということは、いままでの馴染むというやり方は通用しません。なぜならその隙がないからです。まるまる受け入れるしかありません。ところが旦那さんに受け入れる度量が足りなかったのでしょう。どうやっても袋に入らない、そんなもどかしさが長く続いたのでした。


■イメージ作りの苦労

「クープランの墓」は「プレリュード」、「フーガ」、「フォルラーヌ」、「リゴドン」、「メヌエット」、「トッカータ」の6曲から成り、それぞれが第一次世界大戦で戦死した知人たちへの思い出に捧げられているんだそうです。追想と考えるとイメージができそうなのですが、旦那さんは身近で亡くなった人や尊敬する偉人で亡くなった人を偲んでも「メヌエット」の曲調には当てはまらないと頭を抱えていました。

それでも練習は続けないといけませんから、弾きながら考えながら思い浮かべたのが旦那さんの義母、つまり夫・じゅんさんのお母さんでした。じゅんさんのお父さんは数年前に亡くなられていまして、旦那さんは義父を知りません。しかしじゅんさんの実家に行くたびに義父の仏壇にお線香をあげたり、法事やお盆の行事に参加することで、またじゅんさんお母さんがお父さんの仏壇にご飯を供えたり、お墓のお手入れをしたりするのを見ることで、死者を悼むというのはこういうことなのだなと自然と受け入れることができたそうです。

悼むとは辞書で「人の死を悲しみ嘆く」と書いてありますが、泣いたり気落ちすることだけが悲しみの表現ではないんですよね。今ここに死者がいるつもりでいろいろお世話をする。いるはずの人がいないことを認識し、その人のことを忘れないよう日常に組み込んでいくことが、自分の悲しみを癒すプロセスであり、ある種の「前向きな」悲しみの表現なのではないか。旦那さんがそう思った瞬間、「クープランの墓」の「メヌエット」のほのぼのとした明るさと茶目っ気、ふと見せる陰りがじゅんさんのお母さんの姿に重なったのでした。

こうして曲が袋に入った(イメージに納まった)のがなんと発表会1週間前。そして最後のレッスンで不思議な感覚になったそうです。じゅんさんのお母さんになったつもりで「メヌエット」を弾き始めたら、トリオ(中間部)で亡くなったじゅんさんのお父さんが今ここにいる気になったと。そして袋に入った曲がいっきに漏れ出して漂うような感覚になったと。先に「曲と渾然一体となれたときにクライマックスが訪れる」と書きましたが、曲が空気のように溶け出して自分を包み込むような得も言われぬ一体感を味わったそうです。私はその時旦那さんの側にはいませんでしたが、いたとすればお父さんやら音楽の神様やら見えたかもしれませんね。

ピアノの先生にも「今のが今までの中で一番いい演奏だったんじゃない?」と声をかけられ、少し前にイメージが固まった旨を伝えると、にやりとして「やっぱり最後の最後まで仕上げは諦めちゃだめよね。だからピアノは面白い。」と修羅場を潜ってきた方らしいお言葉をかけられたそうです。


■イメージを超えていくこと

そもそも仕上げのイメージをしなければ曲はそのようには仕上がりません。ですからイメージするというのはとても大切なことです。それも自分の技術と精神に立脚した最高のイメージが必要です。それが基準となって超えるときに、今までの自分では出会えなかった新たな地平を見せてくれるのではないでしょうか。

その境地は今自分の最高を求める人にだけ与えられる、ある種のご褒美的なものだと思います。しかし最高を求めたからといって、いつでももらえるものではありません。おそらくこれは縁やタイミングなんだと思います。今回の旦那さんは、じゅんさんの家族となって、ご祝儀的にじゅんさんのお父さん、お母さんに助けられたのではないか。私はそんな風に思ってますけどね。

そんなことを旦那さんに言いますとPerfumeの「DreamFighter」を思い出したそうです。

このままでいれたら って思う瞬間まで
遠い 遠い 遥か この先まで
最高を求めて 終わりのない旅をするのは
きっと 僕らが 生きている証拠だから
もしつらいこととかが あったとしてもそれは
キミが きっと ずっと あきらめない強さを持っているから
僕らも走り続けるんだ YEH! こぼれ落ちる
涙も全部宝物 oh!YEH!
現実に打ちのめされ倒れそうになっても
きっと 前を見て歩くDeram Fighter




「ああいった瞬間を味わうと『遠い 遠い 遥か この先まで』
 って思っちゃうようね。ピアノに限らず。」
 
私のように肉体を持たない存在にとって、人間の生きる楽しさってきっとイメージに追いつくこと、イメージを超えていくことなんじゃないかなって思いますよ。


<紹介>
ルイ・ロルティの演奏で。ラヴェルてんこ盛り!

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