奈良で「遊ぶ」

奈良に出会う前、旦那さんは断然京都派でした。それは山口への帰省時に乗る新幹線を途中下車したらすぐに観光できるから。しかしあることをきっかけに京都からほんの30分足を伸ばすだけで訪れることができる奈良に出会いました。出会ってしまいました! おかげさまで東大寺の法華堂の巨大な仏像が揃った状態で見られる最後の機会に立ち会うことができましたし、テレビCMで憧れていた修二会のお松明も見ることができました。そこからは旦那さんは毎年奈良を訪れているんですよ。今回は奈良に出会ったきっかけの話をご披露しようと思います。

以下はLOVELOG版Messier Catalogue 27の2010年3月19日の記事の再投稿です。


奈良で「遊ぶ」

腐って発酵したとしても所詮凡人の旦那さん。いつも何かを一生懸命やっているんだけれど、特別な能力を身につけることもなく、何もかもが中途半端で、何者にもなっていなくて、自分の周囲を見渡すと、なんかとってもつまんない存在に思えることがあります。こういう感覚って、これといった悩みじゃないんですよね。ただ漠とある不安です。だから旦那さんも形にならないようなことを人にわざわざ相談するってことはしません。

ところが話の成り行きで、ピアノの先生にそんな不安をなんとなァくぼやくと、一冊の本を貸してくださったそうです。「私もあなたくらいの年に同じようなことを思っていて、これを読んで気分が軽くなりましたよ。」と。玄侑宗久さんの「まわりみち極楽論」です。

これ読んだ旦那さん、思ったそうです。そもそも人が人として生きているかぎり不安の根本的な解決なんてないのだろう。なぜこういった不安が生まれるかと言うと、他人と比べて自分が満たされていないと思うから。その他人をどれくらい知っているのかと言うと、自分が作り出した像でしかない。でも他人がいる限りは、一生この像と付き合っていかなければならない。それが人の心の作用なのだから、根本解決などないのだと。

そう思ったらいかに不安と付き合うか、玄侑宗久さんのおっしゃるように心持ちで「極楽」という心境になれるのではないかと気持ちが軽くなったそうです。


■「遊ぶ」ということ

玄侑宗久さんが文中で書かれいたのですが、神仏に与えられた遥かでよく見えない目標において人は初めて「遊ぶ」のだと。確かに。私もそう思います。だいたい、目標を立てて、いつまでに何をして、何を手に入れて…と人が考える計画なんて、たかが知れています。その証拠に自分以外の要素が多い計画であればあるほど、計画どおりに行かないことのほうが多いのでは。思い通りに事が進まないことにイライラせずに、外れることを楽しむ余裕があればいいんですけどね。忙しい現代ではそうもいきませんかね。

旦那さんから聞いたんですが、プロジェクトマネジメントの大家にトム・デマルコって方がいるそうです(*1)。その方曰く「この仕事、1ヶ月で終わります」と誰かが言ったとき、ほとんどの場合、1ヶ月で終わらないことを意味するそうです。なぜか。それは1ヶ月と答えるときの人は一番スムーズにいったときを思い描いて予測するからなんだそうです。だから見積テクニックとして「3点見積り」というのがありまして、それは下記のようなものです(*2)。

 見積り値 = {楽観値+(最頻値×4)+悲観値}÷6

目標達成の話に当てはめますと、例えば楽観値を4日、最頻値を6日、悲観値を8日とするでしょう。上記の式に入れると、見積り値は6。すると人が思い描いた目標達成への道は楽観値なので4日だとすると、だいたいは6日かかると経験則で出ている。では、6-4=2、この2って何? 端的に言えばトラブル対応時間、もっと大きく言えば本人の意思の力ではコントロールできない部分です。

これを仏教的に解釈すると、己の意図を超えたところのもの、「縁」だと。それぞれの人が結ばれる縁って、良いも悪いも全てひっくりめて、誰でもない自分だけに起こる現象ですよね。ありふれた凡人の旦那さんの景色ですら、イチローにもアインシュタインのような天才にも見えない、唯一無二の景色なのですから、それを大切にしていったらいい。そう思うと自分がなんだか誇らしくなったそうです。

もちろん仕事で予想外のことが頻発してもらっても困りますので、旦那さんはスムーズに行かなかった場合を複雑に想定した根回しや準備といったリスクマネジメントはしていますが、それでも予想外のことが起こるからリスクというのであって、「自分だけの特別な現象」と思うと心構えもちょっと変わり、「いっちょやってみましょうか!」と腕まくりするような気持ちになったそうです。

今さえよければそれでいい、今さえ乗り切れればそれでいいとは違うんです。目の前に現れるものの縁の不思議に思いを馳せ(過去)、自分の心の変化を味わい(現在)、去り際に何に繋がっていくのか予感を見送る(未来)というのを今という一瞬に込める。まさにその行為が「遊ぶ」のではないでしょうか。


■自分でつなぐ物語

さて、この度、旦那さんと奈良旅行に行ってきたのですよ! これも話せば長くなるんですが、「縁」の不思議ってものがありまて。

<奈良旅行「ご縁」チャート>
海外旅行の計画を立てる
旦那さんのお母様が「娘(旦那さん)と旅行できる今のうちに海外旅行に行きたい。」と言っていたことから、旦那さんはお金を貯め、この3月あたりで海外旅行の計画を立てました。
 ↓

国内旅行に切り替わる
いくつか候補をあげてお母様に連絡をすると「今は旅行の気分じゃないの。」と言われて計画は白紙になります。そうこうするうちに、兵庫県の母方のお祖父様が米寿だというので、3月下旬の誕生日にお祝いをすることになります。旦那さんは海外旅行出費予定だったのを兵庫も含めた国内旅行に切り替えました。
 ↓

旅行日程が三月上旬になる
ところがお祖父様が誕生日前に手術をすることになる。それで祝いがお見舞いに早変わり。旦那さんは手術の退院時期と入院場所に合わせて京都旅行を計画します。
 ↓

行き先が京都から奈良になる
お母様が「あなた仏像好きでしょう? 奈良に行ったほうがいいわよ。東大寺の法華堂の仏像が全て揃うのは5月までよ。(*3)」と言って、新聞の切り抜きを送ってくる。わざわざの手間に感じ入り奈良旅行に切替。


計画が何転もしているのですが、最終的に落ち着いたのが奈良の東大寺の修二会の期間。松明(たいまつ)を持ってお寺の軒をドババババと振って走る、通称「お水取り」の名で有名な行事です。「え、あれを見られるの(゚□゚)?!」 このように考えると「奈良の東大寺の修二会は行ってみなさいよ。」と神様に言われているとしか思えないという心境になった旦那さん。「そんなのこじつけでしょう?」と言う方もいるでしょう。

そう、こじつけです(どーん)!

でもこじつけでもなんでも、縁の不思議を考えて、それを繋ぎ合わせて物語を作った人にしか、起こった意味を感じることはできなのですから。

意味がないから行わないと言う人がいますが、人の頭で考え付く程度の論理的思考で捉える意味なんてスケールの小さいことだと思います。人の目の前に現れたときから、すでに意味があって、そこから意味を掴むのは、それが過去になった時。それまでは何もわからないのです。酷い目に会うと絶望的な意味しか見出せないこともあるでしょうが、きっとそこからまた積み上げた縁が新しい意味を、気持ちが楽になるような意味を見つけられるのではないでしょうか。

私たちは旅行中はたくさんのお寺をめぐりましたが、旦那さんは室生寺で出会った「如意輪観音菩薩」にあることを言われたそうです。写真で見ると剥落が激しく、状態がよいとはいえない観音様なのですが、暗い堂内で見る、型膝を立てた六臂の思惟姿は実に美しいんですね。それをじっーっと見ていると、一言「楽しいか楽しくないか、ただそれだけ」。これもまあ幻聴というか、こじつけなんでしょうけれど(笑)、生きるとは「遊ぶ」ことだと感じた旦那さんが観音様の顔を見ていると、微笑んでそう言っているように聞こえたのでしょうね。

貴方の前に現れる現象は貴方次第。





<参考>
*1:トム・デマルコ氏インタビュー(ITPro)
*2:数字で語るプロジェクトマネジメント(トーマツ イノベーション)
*3:東大寺法華堂、16体揃い踏みは今春まで。
 5月中旬から3年間の予定で須弥壇と仏像の修理に入る。
 2010年5月18日から7月31日まで拝観停止。
 2010年8月1日から日光・月光菩薩など7体は
  須弥壇の前に下ろした形で拝観可能。
 2011年10月以降塑像4体を免震施設に移す。
  (朝日新聞より)


<紹介>

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