房総は壬申の乱の匂いがする
おととしのゴールデンウィークに千葉県市原市と大多喜町に跨る養老渓谷に行ってきました。旦那さんが奈良が好きなのは以前の記事の中で語られていますが、千葉で奈良に出会おうとは思いもよらず、エキサイティングな旅となりました。渓谷が好きな方は絶対にお勧めの場所! そしてこの記事は歴史好きの人には読み応えのある内容となっています。そしてこの記事に出てくる一緒に行ったご友人とは、勘のいい方はお気づきでしょう。約1年後夫となるじゅんさんのことです。
以下はLOVELOG版Messier Catalogue 27の2011年5月4日の記事の再投稿です。
房総は壬申の乱の匂いがする
「連休に養老の滝、行かない?」
「は、居酒屋?」
それは居酒屋チェーン「養老乃瀧」ですヨ。「養老の滝」は岐阜県にもあるようですけれど、この度ご友人に誘われたのが、千葉県市原市と大多喜町に跨る養老渓谷です。地元の養老川から付けられた名前だそうですけれど、一説にうねりの多い川であることから、ひざの裏を表す古語の「膕(よほろ)」のようだと「よほろ川」(*1)。しかし岐阜の「養老の滝伝説」にも勝るとも劣らずの景勝地であると知りまして、この連休に行ってきました。二人と一匹(憑き物)の道中です。
養老渓谷周辺にあるいくつかのハイキングコースの中で、大福山展望台(285m)というのがありまして、そこに車で向かいました。展望台は周囲より少し小高いところと思っていたら、さらにそこに台がある! まるで浅草花やしき(*2)のアトラクションのような風情、…いや、大人のジャングルジムと言ったほうがいいかしら。[下写真]
とにかくスリリング展望台に上りますと、そこで房総丘陵を一望できるのですが、もう鬱蒼とした森が広がっておりまして。どこまで行っても森。展望台には、北・筑波山方面、西・富士山方面、なんて書いてあるんですがそんなの見えやしない。「森の緑に目をやられた~!」と旦那さんが叫んでいますが、いや、それは黄砂のせいかと…。しかし、目が吸い込まれてしまうくらい森が深いのです。[下写真]
■修行のために山に入る!?(梅ヶ瀬渓谷・日高邸跡)
旦那さんはふっと「奈良の吉野みたいだね。」とつぶやきます。私も「そうですねぇ。山岳修行と言うには、山は低いですけれど、山の深さからいけば修験者が修行していても不思議ではありませんねぇ。」と答えました。家に帰って調べましたら、役小角(えんのおづぬ)の伝承が千葉の地にもあるのですね。伊豆大島に配流になった後、南房総にも寄っているみたいです(*3)。役小角も房総に吉野を見て、気に入ったのかもしれませんよ。さらに調べますと、どうやら房総という土地、出羽三山信仰がさかんだったようです(*4)。私たちの感もなかなかのようです。
その時はそんなことはつゆ知らず、寺社や坊主のファンの旦那さんはすぐに山林での修行に思いは飛んでいったようですが、戦国時代ファンのご友人は
「里見氏(安房の領主)は潜伏し放題だねぇ。
当時はこういう山の中を進軍していったんだよね~。」
とお互いに山深さに萌えツボを押されたようです。最初は展望台だけで帰ろうとしたのが、ファンたるもの、追体験をするのが無上の喜びといわんばかりに、展望台から梅ヶ瀬渓谷にある日高邸跡(明治時代の教育者・日高誠実の居住跡)まで下ることを決心します。
梅ヶ瀬渓谷は紅葉の名所だそうなんですが、今は新緑の季節。様々な緑色に、キラキラ光るせせらぎ、目に沁みるような苔むした岩がまるで「天空の城ラピュタ」の古代庭園のような雰囲気で、私は大変気に入りました。すれ違ったハイキング客も1組だけで、その世界を独り占めできる喜びがありました。[下写真]
と、幸せをかみ締められるのは往路(下り)と目的地周辺だけで、後は地獄の復路(上り)が待っています。「わかってますよ、わかってるんですけどね。」旦那さんブーたれてます。「これはしゅ・ぎょ・う(修行)です。」と耳元で囁くとちょっとやる気になったみたい。私も彼女に憑いて久しく、扱い方を心得ておりますので。コホン。(修行、鍛錬、修練という言葉に弱い。)
二人とも急な斜面をヒーヒー言いながら倍の時間をかけて尾根出口に到着。結局、1.5kmの往復(3Km)、行きが40分、帰りが80分、計2時間はかかりましたかね。尾根の東屋でお弁当を食べていた地元のおじさんが
「梅ヶ瀬渓谷から登ってきたの? すごいねぇ。
私も前にチャレンジしたけれど、じいさんばあさんには無理だね。
あれ。あははは。」
と声をかけてくれました。ええ、じいさんばあさんでなくてもかなりヘビーですよ。こうやって体験してみますと、いかに昔の人は健脚だったかと思い知ることができます。
もし興味をもたれた方はこちらの地図(養老渓谷温泉郷HP)の「大福山・梅ヶ瀬渓谷コース(9.6km)」をクリックしてご覧ください。
■ここにも奈良が?(バンガロー村・弘文洞跡コース)
もうひとつのハイキングコース「バンガロー村・弘文洞跡コース(7.4km)」があります。旦那さんは「洞って、洞窟があるの!?」と勇み足で勘違いして、それを見てみたいと思ったそうです。正確には洞跡。さて観音橋経由(右周り)でその場所に行きますと、次のような立て札が立っていました。今からおよそ四〇年前、耕地を開拓するために、養老川の支流 蕪来川(かぶらいがわ)を川まわしして造った隧道(すいどう)で葛藤の洞穴と呼ばれておりました。()内の読み仮名は補いました。
弘文帝と十市姫にゆかりの深い高塚や筒森神社の傍を流れ本流にそそぐ合流点ににあることから「弘文洞」と命名され、景勝地、釣り場の代表として、世に紹介されましたが、昭和五十四年〔一九七九〕三月二十四日未明に一大音響とともに崩落し現在にいたっております。
養老渓谷観光協会
「川廻し」とは湾曲したところを農地利用するため、川をショートカットさせるための技術で(*5)、弘文洞はそもそもトンネルであって、洞窟ではなかった! しかも崩落してもうトンネルではなーい。なるほど、よほろ川…がっくし。それでも、切り立った崖、そこから射す光、深い緑、穏やかな水の流れは独特の景色として十分美しいものでしたが…。[下写真]
ところでこの立て札で旦那さんと私がひっかかったことに、「弘文帝と十市姫にゆかりの深い高塚や筒森神社」という箇所です。なるほど「弘文洞」! しかし何で千葉に弘文天皇と十市皇女がいるの? 去年、奈良の新薬師寺傍で十市皇女の祠を見つけてからというもの、私たちの頭から離れないお二人なのですよ(*6)。
弘文天皇とは壬申の乱の敗者の皇子様・大友皇子のこと。十市皇女とは壬申の乱の勝者の大海人皇子の娘で、大友皇子の后です。「日本書記」によると、琵琶湖南の瀬田橋の戦いで大友皇子は劣勢となり、退路を塞がれ、山前(やまさき)で首を吊って自害したそうです。山前には諸説ありますが、琵琶湖近所であることは間違いありません。実際に弘文天皇陵は滋賀県大津市にございます。
大友皇子が弘文天皇と呼ばれるようになったのは明治三年、明治政府が諡(おくり名)を与えて認定してからです。それまでは帝位についたとは見なされていませんでした。よって江戸末期に掘られた弘文洞が「弘文洞」と名前がついたのもその直後のようです。それまでは大友皇子として大多喜町には伝承が残っていたのでしょうかね。このタイミングでの名前の付け替えは、大政奉還記念というような意味もあったのでしょうかね。
旦那さんは観光マップ(養老渓谷温泉郷HP PDF版を印刷したもの)を見ながら高塚と筒森神社を探します。
「筒森神社は筒森もみじ谷のほうだろうから、ここから5kmくらいあるよね。
ここは今回はパスとして。高塚はどこ?」
「旦那さん、弘文洞跡の近所に塚越って集落があるみたいですよ。
『塚を越える』っていうくらいだから、ここらが塚じゃないですか?」
「そうねぇ、塚を見てみたいよねぇ。」
お連れのご友人を巻き込んで、塚探索が始まり、あげくの果てには道を間違えて、コース外の八坂神社まで行ってしまう始末。ご友人のiPhone(地図アプリ「マップ」)の電波が入らなかったら、本気で迷子になるところでしたよ…。結局、塚は見つかりませんでした。残念。でもこういった本道から外れた、ちょっとした冒険が楽しかったりするものです。
もし興味をもたれた方はこちらの地図(養老渓谷温泉郷HP)の「バンガロー村・弘文洞跡コース(7.4km)」をクリックしてご覧ください。[下写真は中瀬川遊歩道、バンガロー村の橋の袂で水遊びする子ども]
■房総は壬申の乱の匂いがする
家に帰って調べましたら、南房総には壬申の乱に敗れた後やってきたという弘文天皇の伝説があるのですね。本屋や図書館で本を見ましたら民間伝承の域を出ないような扱いでしたが、実際千葉にはいくつか跡があるようです。HPで調べられた範囲でまとめますと…(*7)。
<一覧>
~十市皇女関連~
・筒森神社:この地で難産で亡くなった十市皇女(正妻)を祀っている。
~弘文天皇関連~
・白山神社:奥にある古墳が大友皇子の墓と言われる。
・小櫃(おびつ):地名。大友皇子の遺骸を収めた櫃に由来する。
・御腹川(おはらがわ):川名。大友皇子が腹を切って自害した伝承に由来する。
・飯給(いたぶ):地名。大友皇子一行にご飯を差し上げた伝承に由来する。
・犬成(いんなり):地名。大友皇子が小櫃に向かう途中で立ち寄った場所。
御幸。院成(いんなり)
~耳面刀自命(みみものとじのみこと)関連~
・十二所神社:大友皇子が敗れたことを知って自刃した耳面刀自命(側室)と
12人の女官を祀っている。
・神明神社:耳面刀自命と女官の遺品を埋めたとされる。
・小妻山神社:小都摩(こつま)と呼ばれた女官の遺品を埋め、
そこに山の神を祀ったとされる。
・守公神社:耳面刀自命や女官を守っていた兵士を祀っている。
・内裏塚古墳:耳面刀自命が埋葬されたという伝承がある。
・大塚原古墳:耳面刀自命が埋葬されたという伝承がある。
・日月神社:大友皇子・耳面刀自命を祀っている。
・内裏神社:耳面刀自命を祀っている。
~遺族関連~
・福王神社:大友皇子の息子を祀っている。壬申の乱の後に4人の重臣と
奈良輪高洲付近の海岸に上陸し隠れ住んだ。
死後、重臣たちによって小さな祠が建てられたのが始まりとされる。
<地図>
より大きな地図で 千葉県・大友皇子の跡 を表示
本当に大友皇子がやってきたかって? 彼が葬られたとされる白山神社古墳からいくつか由緒ありげなものが出土したようですが、それだけでは証拠にはなりません。もしかすると皇子と証明するもの、形見のようなものを持った部下が「私は壬申の乱で負けた側の高貴な方の『お供』のものです。」と言って、「おとも…おおとも…『大友』皇子らしいよ。」なんて地元の人が解釈してしまったのかもしれませんし…。冗談ですよぅ。
では十市皇女はやってきたかって? 壬申の乱後に大海人皇子(天武天皇)の息子・高市皇子が送った情熱的な歌はなんだったんだろうってことになりますよね(*8)。だから私は十市皇女は、壬申の乱後は父親の天武天皇に引き取られて、大津宮から飛鳥宮にうつったのではないかと思っています。
でも耳面刀自命はわかりません。彼女自体、日本書記をはじめとする正史には出てこないらしいので、架空の人物と言われることもあります。しかし側室として歴史上は日陰の身だったとして、父親の中臣鎌足の出身が茨城県鹿島とするなら、父方の血縁を頼って遠くへ逃げようとしたのは十分に考えられます。そうすると船で鹿島に向かう途中に九十九里で下船したということもありえるかもしれません。こんなに跡が多いのも「鹿島の鎌足さんのお嬢さんらしいよ。」と名前パスだったかしらなんて想像も膨らみます。
また耳面刀自命が妊娠していたことも考えられます。正妻ではありませんが、天皇の妃となれば、それが筒森神社の伝承に繋がっていくのかもしれません。もしくは耳面刀自命以外にも側室がいたかもしれません。ご落胤となれば大津宮から逃れてきた周囲の者たちは必死で守ろうとするでしょうし。またそれ以外にも旅を共にした女性の中に妊婦がいたのかもしれませんね。もう一緒くたに大友皇子(サイドの人)とその妻ご一行。
当人たちが本当にやってきたかはともかくとして、壬申の乱に関係する人たちに関わる古墳や神社や地名が千葉にはあちこちにあるということだけは確かです。ロマンですねぇ。
歴史というのは史料がないと歴史としては扱えず、どうしても時の権力者が書き残した史料(正史)を中心に据えざるを得ません。特に旦那さんのような素人歴史ファンは、簡単に手に入る(出版物として流通している)資料の性質上、奈良、京都、東京といった都を中心に考えがちなのですが、実際にその地に足を運ぶと史料や二次文献(本)だけでは知りえないものに偶然出会えたりするのが面白いのでしょうね。
「これだから、旅はいいねぇ。」 賛同。
<参考>
*1:養老川(Wiki)
*2:花やしき(公式HP)
古くてギシギシ言うジェットコースターなどとりわけスリリング。
*3:役小角(役行者)-大房岬の開祖-(南房総資源資料 HP)
*4:出羽三山信仰と房総(おぼろ男 Blog)
出羽三山信仰(姉崎郷土資料館HP)
*5:川廻しのトンネルについて(WOODLAND-TRAIL HP)
とてもわかりやすい!
*6:夢違観音、奈良再び(当Blog)
*7:弘文天皇の伝説 参考HP
市井の歴史ファンの方々はすごいんですね。
本屋や図書館の本よりも強力でした。ありがとうございました!
君津市の歴史(君津地方歴史上情報館 HP)
白山神社紀行~千葉・君津/木更津~(東風の部屋 HP)
番外編「大友皇子伝説」(古代史の扉 HP)
弘文天皇落去伝説と白山神社縁起 第八章(白兎のほほん探訪記HP)
大友皇子(弘文天皇)妃・耳面刀自媛の東下り(房総史譚 Blog)
(その1)~(その5)
*8:十市皇女(Wiki)
「十市皇女に関する歌」の「高市皇子」の項をご覧ください。
二人は歌の内容から関係があったとされています。
<紹介>
こちら、壬申の乱を知るばかりか、地図や写真入りで旅行した気分になって一石二鳥。この方は持統天皇悪女説(夫の大海人皇子に乱をそそのかす)を取ってらっしゃいます。
こんばんは、はじめまして。
返信削除私は千葉で、大友皇子ファンだったので、彼のことは10年以上前に神社があることは知っていたのですが、最近やっと訪れました。
それで、小櫃(君津市)に「白山神社(古墳つき)」があるのです、そこが大友皇子の神社で、菊理比売(ククリヒメ)と祀られているそうです。
けっこう大きい神社でした。
おそらくお江戸のドミノさんが記述の「大友皇子と十市皇女」は、「高市皇子と十市皇女」の神社ではないか・・とおもいました。
君津との間の筒森神社といすみ市にある東小高神社と、ただの小高神社、この三つが拠点のようですね。
場所もだいたい調べましたので、興味あればお教えしましょうか?
まあ、どこまで信じていいのかわからない伝説ではあるのですが、わたしも奈良隙ですので参考までに(笑)
うちのブログ、おいておきます。
大友皇子関連の記事も少し書き始めたので、興味あればぜひどうぞ。
http://sterndog.blog.fc2.com/
返信削除すみません、こちらがブログです!
URL忘れてしまいました(^^;
ではまた~
Youさん、こんばんは!
削除小櫃の白山神社に行かれたのですね。羨ましいです。(><)
白山信仰をこの地に持ってきた昔の人たちは、意図したわけではないにせよ、大友皇子が亡くなった地でくくり直される(できれば十市皇女)と考えると、なんともロマンチックですね。
そしてとても有益な情報ありがとうございます!
筒森神社、いすみ市にある東小高神社、小高神社は「高市皇子と十市皇女」の神社なのですね。高市皇子と言えば、恋人説、夫婦説のある十市皇女の死を悼んで熱い歌を送った方ですよね。
筒森神社は「バンガロー村・弘文洞跡コース」のマップに記載されていたと記憶していますが、東小高神社、小高神社はもしよろしければ場所を教えていただけますでしょうか。
このコメント欄を使っていただけると、他の古代史ファンの目に留まれば、きっとお役に立てていただけると思います。
奈良ファン、古代史ファンの方とWeb上で出会えてとても嬉しいです。ブログ見てみますね。(^^)