小さな子どもの思いやりから

旦那さんはすうちゃんを郷里の両親に見せるために帰省をしました。帰省先では様々なイベントがありましたが、一番楽しみにしていたのは嫁ぎ先のカナダから帰省した親友との再会です。この度は旦那さんはすうちゃんを連れて、ご親友は4歳のお嬢さんと1歳の坊ちゃんを連れて会うことにしました。ところが残念なことにすうちゃんは初めての環境に戸惑ったようで2時間のうち半分以上は泣き通しでした。そんな赤ちゃんのすうちゃんにご親友のお嬢さんと坊ちゃんは実に心優しい気遣いを見せてくれました。



お人形のようにキュートなカーリーヘアのお姉ちゃんは最初から「私のおもちゃを貸してあげる。」という心意気でおもちゃを紹介しながら旦那さんに手渡してくれました。ご親友が「まだ赤ちゃんには早いのよ。」と説明をしても、果敢に様々なおもちゃを持ってきてくれました。その上すうちゃんの絵も書いてくれました。またよちよち歩くようになった弟くんはすうちゃんがわんわん泣いているとそっとおもちゃを渡してくれようとしました。

「小さい子たちなのに自分より小さくて弱い者を思いやる心があるんだ!」

私が感心したことは言うまでもありません。


■生まれ持った優しさ

やさしいこの子たちの親である旦那さんの親友は人間として大変よくできた方なので子どもたちへの躾もきちんとしているでしょう。特にお姉ちゃんは弟くんの可愛がるように言われて実践していると思います。そして弟くんはお姉ちゃんを通して小さい子を思いやることを体験していると思います。

だから自分より小さくて弱い者を思いやれたのか。そうであればここでの思いやりは規範(親の権威で押し付けられる価値感で、受け入れなければなんらかのペナルティがある)として躾けられて実践したということになります。

しかし弟くんは1歳半ですので規範と理解するにはまだ幼いです。思いやりは生まれつき備わっていると考えるほうが自然ではないでしょうか。もしくはお母さんが自分を慈しんでくれるからその真似をした、お姉ちゃんが自分と一緒に遊んでくれるからその真似をしたとも考えられますが、お母さんの子を思う気持ちと行為は本能であり、真似もまた本能だとすると、思いやりは命をつなぐための本能的なものなのではないかと思うのです。


■隠れてしまった思いやり

このように誰もが持っているはずの思いやりの心が溢れている世の中であれば、この世はパラダイスですよね。だけどそうはならない。自分さえよければいい、自分の得になればいいと振舞う人が多いのも実情です。

なぜ思いやりの心を発揮することができないのか考えてみますと、「私」という意識のせいのように思います。幼い頃は「私」は未発達で周囲と一部溶け合っている、もしくはふにゃふにゃと柔らかい状態ですから、想ったことはそのまま表現として漏れ出てきます。思いやりも表現しやすい。しかしこれには一長一短があり、思いやりだけでなく様々な感情が表に出てきます。

特に怒りは「私」が傷つけられようとすると警報を鳴らす機能で、幼い頃は「私」が未発達がゆえに頻繁に警報が鳴ります。自分の要求が受け入れられないと「私」が軽んじられ傷つけられるように感じて怒る、これは「子どもっぽい」と言われる特徴です。しかしそれでは他大勢の「私」とうまくやっていけません。そこで成長するにつれて感情を制御する力と簡単に漏れ出ない殻を見につけていきます。生存するために社会化する。これが「私」を意識させる仕組に他なりません。

「私」として社会でやっていくことを意識すると、「私」として生存することが一番大切になりますから、「私」さえよければいい、「私」の得になればいいという生き方はある意味合理的なものとして理解できます。思いやりの気持ちは二の次になってしまうのは仕方ないことなのかもしれません。

そして今度は「私」に余裕が出ると欲が出てきます。相手に賞賛されたい、笑われたくない。すると無邪気に表現ができなくなります。電車の中で席を譲るといった小さな思いやりを表現する時ですらも独善的ではないか、迷惑ではないか、かっこ悪くないかなどと判断が入るのはそのためです。「私」に注がれる視線が増える(と感じる)のは高度に社会化した証拠なのではないでしょうか。


■しなやかな「私」へ

それでも自分本位の行動が世の中に横行せずに思いやり溢れる場面があるのもまた事実。社会化してもやさしい気持ちは淘汰されず、また規範としても推奨されることを考えれば、他者を思いやる行動が人類全体としての繁栄に繋がると大勢の「私」はわかっているのでしょう。

旦那さんにとっても今回の子どもたちとの出会いは人間は生来思いやりの気持ちを持っている、それは自分にもあるはずだということを思い出すよい機会となったようです。その上で「私」を持ちながらやわらかな子どものように思いやりを表現したい。そのためにはどうするか。

旦那さんは次のように考えたようです。

「できるだけ健康に気を遣い、なるべく機嫌をよく保ち、日々仕事に勤しむ。
 つまり人間として自律するってことだね。
 肉体的、精神的、経済的にゆとりができて
 ようやく心から他人のための行為ができる気がするよ。」

病気の人でも、落ち込んでいる人でも、貧乏な人でも思いやりを発揮できる人はたくさんいます。それはおそらく「足るを知る」人であり、現状の自身のキャパシティーを満たした状態でささやかなゆとりを生み出しているのでしょう。

肉体的、精神的、経済的にバランスの欠けたいずれかを「思いやり」で満たそうとするパワフルタイプもいます。しかしこれはどこか偽善的になりがちです。それでも「思いやり」を続けているのであればそれはいつか本物になります。なぜなら欠けたバランスは自らの「思いやり」によっていつか満たされるからです。

子どものやわらかな「私」から大人のしなやかな「私」へ。旦那さん、がんばれ。


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