タブーの子

昨晩、NHKのニュース、およびクローズアップ現代で「ネットで精子提供を持ちかけ妊娠・出産も」という話題が取り上げられていました(*1)。現在の日本の法律では結婚したカップルで、男性が無精子症の場合のみ夫以外の第三者からの精子提供が認められているのですが、どうやら話を総合するとニーズはその妻よりも、結婚しなくても子供を産みたいと強く願う未婚女性が主であるということがわかりました。

旦那さんは40歳を目前に幸運にも結婚でき、子供まで授かりました。そして子を持ってみてわかった感覚。今回のニュースの件の得も言われぬ気持ち悪さ。きつい言い方ですがこの表現しか思いつかないと言います。40歳超で未婚の場合、老いによる生殖機能の低下から子を成す可能性は限りなく低いと考えたときの女性の悲しみ、焦り、渇望は想像できます。だからといって自分だったらインターネットで探し当てた男性から精子提供を受けられるだろうか。旦那さんは自分であれば一生独りであることを望むはずだと言いました。

この気持ち悪いという感覚は、もちろん生で精液をやりとりする生理的な感覚もありますし、感染症などの衛生面の問題や遺伝性の障害といったナーバスな医学的問題を多くはらんでいることにも起因するのでしょう。しかし一番の旦那さんの戸惑いは倫理的な問題だと思うのです。倫理というのは「社会で正しいとされる在り方」のことです。社会=その社会に所属する人間が決めることなので、集団によっても、時代によっても異なることがあります。だから絶対的に正しいというものではありません。ただ人間である私たちにとって、その集団が繁栄していく上で「善し」とするルールに則っているかは社会生活を営む上で非常に重要です。

「ネットで精子提供を持ちかけ妊娠・出産」は旦那さんの考えるルールに照らし合わせて正しくない。未婚の女性が子供を望んでいる、見ず知らずの男性も精子提供を望んでいる、形の上では生物学上親となるべき二人が望んでいるように見えますが、女性も男性もバラバラの方向を向いたエゴ、特に女性の「産んでみたい」という熱狂にしか映りません。生生しくプラスチックケースに入れられた精子を白昼に受け渡しして、それをシリンジ(注射器)で膣内に挿入してできた子供、もしくは愛のない契約セックスをして生まれた子供をどうとらえればよいのでしょうか。生まれてきた子供には罪はなくとも、背景を込みで考えると複雑な気持ちになってしまうのです。

子供は、レイプなどの痛ましい暴力でない限り、古代から続く人間の営みの中でカップルに望まれて生まれなければならないと考えます。やむを得ぬ理由でそれを犯すものは、法律に則り、病院関係者が携わり、多くの手間とお金をかけなければならないようになっています。それが試練であり、禊であり、祝福なのではないでしょうか。ここまでするから、私たちは無意識に親子ともタブーでも成員として受け入れられるような気がするのです。

旦那さんは今ルールを外れた他人を目の前にする恐怖を感じています。これが気持ち悪いの正体でしょう。実際にその母子は人目にはシングルマザーとその子供に映るでしょうし、きっと旦那さんも普通に接することでしょう。しかし社会がOKというまでその母子は出自をオープンにできない後ろめたさを抱え続けます。将来「ネットで精子提供を持ちかけ妊娠・出産」が割とありふれたことになり、日本の法律も追いついて整備されたとしたら、きっとその時は社会の成員として普通に受け入れられるようになっているかもしれません。それまではできれば保留にしたい。そんな衝撃的なニュースでした。


<参考>
*1:ネットで精子提供持ちかけ 妊娠・出産も(NHK HP)

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