最澄と空海について調べてみた

ゆえあって旦那さんは近々高野山に行くことになりました。じゅんさん、すーちゃんを置いて、私だけをお供に。復習の意味もこめて、高野山熱が高まっていた当時の記事を再掲載したいと思います。高野山レポートはまた後日。

以下はLOVELOG版Messier Catalogue 27の2009年9月23日の記事の再投稿です。



旦那さんはこの7月に比叡山に行ってきたのですが、「高野山カフェ」に連れていってくれたご友人(*1)には「何しに行ったの? 高野山よりむしろディープでしょう。」とつっこまれていました。いやいや、高野山がより身近なのはご友人のバックボーンゆえだと思いますぞ!と旦那さんの足元でつぶいてみる…。比叡山も高野山も山深いところで、観光は1日かかりますので、○○のついでに寄ったということは不可能で、わざわざ出かけなければなりません。

なぜ比叡山に先に行ったのかは、理由は前の日記に書いたとおりですが、もう一つの大きな理由は新幹線で移動する旦那さんの都合です。比叡山はJR京都駅からバス1本で1時間5分ですが、高野山の場合はJR新大阪駅から特急も含めて約1時間40分。そうなると観光のための地の利の軍配がどうしても比叡山にあがる。この場合は滋賀県大津市の坂本からケーブルカーで行くと琵琶湖ビューが絶景。ごめんね、高野山。でも高野山のほうが、ホームページの作りのほうはダントツ上だから(*2)。その点は頑張ってね、比叡山。


■昔は比叡山のほうが遠かった
今でこそ、比叡山のほうが京都に近いわけですが、最澄が比叡山に入ったとき、まだ都は奈良だったんですよ。当時、孝謙天皇という女帝で、奈良仏教(*3)の道鏡という高僧を寵愛するのですが、しまいには道鏡は皇位簒奪を企てようとして未遂に終わるという事件を起こしています(*4)。近江(滋賀県)出身の19歳の最澄は堕落した奈良仏教を見て「大人って不潔!」と思ったかどうかはわかりませんが、奈良の東大寺で具足戒を受けた後(*5)、そこで修行することもなく、故郷に帰って激烈な「願文」したため、日枝の山に篭ってしまうんですね。そして彼が「やっぱりこれしかないよね!」と思ったのは時代に逆行するかのごとく聖徳太子の時代の仏教、天台法華宗なのです。

同じ頃、腐敗した奈良の都を捨てて、新しい都を求めた天皇がいました。それが桓武天皇です。ご存知794(なくよ)ウグイス平安遷都。都に背を向けたはずの最澄に、思いかげず権力が近づいてきたことになります。「願文」を読んだ内供奉(天皇の傍にいる僧)の一人がいたく感動したことから、最澄ファンの輪が広がっていき、最終的には桓武天皇の目に留まり華々しく活躍することになります。この時最澄28歳くらい。

しかし奈良で研鑽を積んでいない最澄は、そのままでは奈良仏教の僧侶たちを説き伏せることもままならない。そこで天皇に唐への留学を願うのです。寵僧である最澄は通訳付きで2年の留学を許可されます。同じタイミングで留学をしたのが最澄より7歳年下の空海です。彼の場合は通訳なし20年の留学を命じられました(804年)。この違いはいったいなんでしょうか?


■空海は昔ヒッピーだった?
若き空海も、最澄に負けず劣らず激しい。最澄の激しさは一本木なんですが、空海の激しさはぶっとんでいる。讃岐(香川県)から一族の期待を背負って、奈良の大学に入ったのはよいものの、「儒教つまんねー、仏教さいこー」となって中退してしまう。それでタオイズムの影響も入った山岳修行にあけくれたりと、なかなかにヒッピーな青年時代を過ごします。24歳の時には「三教指帰(さんごうしき)」という冴えに冴えた論文(出家宣誓書?)の中で、儒教・道教・仏教どれが一番素晴らしいか、ストーリー仕立てで仏教の優位性を主張しています。

そんな空海ですから31歳で留学生に選ばれたとき、正式な僧かはわからない。しかし異常な修行ぶりや学識の高さから、推薦をしてくれる仏教関係者がいたんでしょうね。でも時の人・最澄と無名の空海とは残念ながら扱いが違う。しかしここから空海の華麗な出世劇がスタートします。

空海は唐では仏法の中でも一番優れているといわれた不空の一番弟子、恵果から密教を学びました。奈良時代にも密教は伝わっていたのですが、真の密教を第一人者から直接教えてもらったわけです。そして2年で結構ということで、20年だったはずの留学をさっさと切り上げて帰国します(806年)。しかしこれではお上の命令に背くことになりますので、こんな素晴らしいものを持ち帰りましたということが書かれた「請来目録」だけを朝廷に送り、大宰府の観世音寺でじっと待ちます。

密教というのは、口伝でしか伝わらない秘密に説かれた深遠な奥義という意味で秘密の仏教、密教と呼ばれます。本仏が大日如来。「大日経」「金剛頂経」が大切な経典とされ、その教えをそれぞれ「胎臓界曼荼羅」「金剛界曼荼羅」でシンボル化(*6)。真言(大日如来の言葉)を通して、身/口(言葉)/意(心)を大日如来と一体化させ、生きながらに仏になること(即身成仏)を最終目標とします。この真言というのがサンスクリット語なんですね。この一体化させる技そのものが秘儀なのです(*7)。


ちょっと語弊があるかもしれませんが、大日如来とはあのお釈迦すらも内包する偉大なる宇宙神のことで(*8)、私のイメージですと、まるで世界を取り囲むインターネット網(WWW)。その物理的なネットもノードも、インターネットの概念も、そこを流れる情報も、それら全てを指して大日如来。さしずめノードが各仏、概念が世界といったところでしょうか。「イノセンス(攻殻機動隊)」(*9)のネットに存在を一体化させた草薙素子さんのように活躍するのは、即身成仏の証? 実はキャッチフレーズ「イノセンス、それはいのち」だなんて…運命的。旦那さんは「小悪魔Agehaの表紙が金剛界曼荼羅に見えるのは私だけだろうか。」と言いますが[左図]、それは同意しかねます(苦笑)。


■密教をめぐって最澄VS空海
一方の最澄も空海の帰国する1年前に帰国していました(805年)。それも天台の教えと密教の教えを持ち帰って。なぜ熱心な天台の僧なのに、密教まで持ち帰ったのか。それは国の中枢に出入りするようになって、自分の信じるものを国家宗教にするためには、教義だけでなく、国家鎮護のため呪術という実践を示さなければならないと感じたのでしょう。時代は下りますが菅原道真や平将門などの祟りが信じられていたのがよい例です。桓武天応の場合は、実弟の早良親王の呪いを恐れていました(*10)。現に帰国してすぐに行われたのは病床に伏せる桓武天皇のための加持祈祷です。こういった技のために密教が必要であると思った最澄は、空海の「請来目録」を見てびっくりしたことでしょう。「まずい、こんなの知らないぞ!」「う~ッ、見たい~!」

806年、桓武天皇という最澄とっての最大のパトロンが崩御、自分の立場を弁えていた彼は比叡山に帰ります。そしてそこで彼が行ったことの一つが密教の勉強なのです。809年には、最澄は空海に本の借用を申し込んでいます。そればかりか811年には、最澄は自分がかつて灌頂の儀式(*11)を弟子たちに行った寺・神護寺に空海をつれてきて、そこを密教の勉強の拠点にさだめ、翌812年には自分も弟子たちも空海から灌頂を受けています。自分の行った灌頂ではなく、空海の灌頂を優先したのですから、こういうエピソードを知ると最澄はプライドは二の次の求道者なんだなあと思います。

嵯峨天皇の御世なって、密教にスポットライトがあったったことから、空海は一躍時の人になったことは言うまでもありません。最澄からもたびたび本の借用依頼が来るわけですが、最初は快く貸していたものの(それは最澄が密教に注目することで、自分を表舞台にひっぱりあげてくれたから)、とうとうお断りします。それは「理趣釈経」といって愛欲の肯定、性欲の肯定をする結構過激な本で、真言宗ではもっともよく読まれているそうです。私はもちろん読んだことはありませんが、インドのヒンズー教の空気を感じますね。「字面だけではわかりますまい。密教僧になって修行するなら、よろこんで密教を教えましょう。」

それだけではありません。空海の元に遣わしている愛弟子の泰範が帰ってこない! 最澄は泰範に「天台も真言も同じであり優劣はないはず、おまえと私はこの世でもあの世でも深い縁で結ばれているのだから、早く帰っておいで。年寄りの自分は寂しいよ。」というような、恋人に宛てるようなお手紙を送っています。

それを空海がぴしーっとお断りメールを出しています。「天台と真言は同じあると言いますが、違・い・ま・す。私の密教は自分が本当に喜ぶようにならなければ、他人なんて救いません。同じって言うなら、あなた喜んでないじゃないの。(喜んでないと天台の利他の精神なんて無理無理ィ~)」 はうッΣ(゚д゚;)))))揚げ足取り。

今ならこんな弟子取り合戦、BLネタにされちゃいそうですけど、この時最澄は50歳過ぎてますから。松岡正剛さんは「ここはひとつ作家的想像力の奔放にまかせてこの事件の行方を書いてもらうのがよさそうだ。歴史論などにしたくないところである。」なんて、自身の本の中で空海と最澄の接近を拒んだ男としての泰範を面白がっています。実際のところ想像なんですが、この裏には、泰範が産業スパイのようになりかねないという懸念が空海にはあったんだと思います。そういった計算があったからこそ、泰範を骨抜きにして(?)、自分サイドに引き入れた。この後、泰範の名前が資料に出てこないことを見ると、空海の下ではあまり活躍できなかったようです。


■二人のその後
この後最澄はどうなったか。寂しい晩年の印象がありますが、いやいやなかなか忙しい。彼は論争の日々によって天台宗の教義を強固なものにしました。また僧になるための戒を授けるのは相変わらず奈良の東大寺だったのですが、自分たちの比叡山延暦寺で戒を授けられるようになること(一向大乗戒)が悲願でした。その運動で大忙し。なんと最澄の死後7日目に一向大乗戒が朝廷に許可されたそうです。死後49日は経ってないから、一応見届けたかな?(822年) そして道半ばだった天台密教についても、最澄の思いを受け継いだ天才と呼ばれた弟子・円仁と円珍が完成させます(*12)。また比叡山は法然、親鸞、日蓮、道元、栄西などの各宗開祖を生み出すことにもなりました。

さて一方の空海のこの後。嵯峨天皇の寵愛を受けて文字通り大車輪のような活躍したように思われますが、彼もまた山に帰っていきたいとお願いをして、816年に密教修行の場所として高野山を賜ります。そして823年には五重塔で有名な東寺(教王護国寺)を都の道場として賜る。このとき空海50歳。この2拠点を往復しつつ、真言宗が永遠に栄えるよう手はずを整え、835年に亡くなりました。この後、高野山から比叡山のような各宗開祖が出なかったのは、それだけ教義として完成されている、隙のないものということで、空海の天才ぶりが伺えます。また高野山では空海は永遠の定(じょう)に入って(*13)、奥の院で生きているという伝説があります。まじっすか?

これだから、高野山行かないと!


<参考>
参考文献
梅原猛「最澄と空海―日本人の心のふるさと」(Amazon)
松岡正剛「空海の夢」(Amazon)

*1:比叡山で自己愛と向き合う(当Blog)
  高野山と言えど女の園!?(当Blog)
  ご友人は大学では仏教専攻、サンスクリット語を勉強されていた。
*2:高野山(世界遺産 高野山HP)
  比叡山と比較しなくても、あらゆる観光地の中でトップクラスの作り。
  この辺りは書も絵も上手いとされた弘法大師様ゆずりかな(笑)
*3:南都六宗…三論(さんろん)、法相(ほっそう)、成実(じょうじつ)、
  倶舎(くしゃ)、華厳(けごん)、律(りつ)
  東大寺の場合、現在は所属宗派を明示する必要から華厳宗を名乗ってますが、
  奈良時代には「六宗兼学の寺」とされました。
*4:道鏡事件(Wiki) *5:具足戒を受ける(コトバンクHP)
  要するに戒律を守る誓いを立てる出家の儀式
*6:両界曼荼羅(Wiki)
*7:密教(ハイパーリンク世界史事典 早崎隆志さんHP)
  密教についてコンパクトな説明はこちら。
*8:釈迦如来と大日如来はどういう関係なのですか?   (yahoo 知恵袋)
*9:イノセンス(Amazon)
*10:早良親王と藤原種継暗殺事件(Wiki)
*11:灌頂を受ける(Wiki)   頭頂に水を灌ぎ、正統な継承者とする為の儀式
*12:円仁と円珍 2人の天才と門徒の争いの歴史~延暦寺(産経ニュース)
  この円仁と円珍の弟子が派閥争いをして、
  山門派と寺門派に別れるんですよね。諸行無常~。
*13:(Wiki)


<紹介>
すいません、梅原猛さんの売り切れなもので! こちらもよさげ。

コメント

  1. 横浜のかずみ2015年6月1日 23:24

    お久しぶりです。今日すっごくすっごく久しぶりにここを覗かせて貰ったら、今私が猛勉強している内容のトピックでびっくり!!!
    今年はとある資格試験(前にお話ししたかもしれません)の為、ネットの講義プラス「学研マンガ」で大の苦手の日本史を勉強してます。ドミノさんの解説めちゃくちゃわかりやすいのでマンガの最澄と空海の場面をしっかり思い出すことが出来ました!!!これからしばらく、色々覗かせてもらうかも♪

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    1. かずみさん、こんにちは!

      お久しぶりです。私も旦那さんが職場復帰したタイミングで社勤めをするようになりまして、忙しくしていて、このブログ更新がおろそかになっていました。本当に申し訳ございません。

      偶然久しぶりにこのブログを覗いていただき、お役に立ててなによりです。資格試験、がんばってくださいね!

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